反省
多忙と怠惰のために、しばらくブログをお休みしていたのですが、今になって数ヶ月前の記事を見て驚きました。
稚拙というか、我が身知らずというか、こんな恥ずかしい文章をよくもまあ世に出せたものです。
何人かの心ある方から辛らつなご批判・ご忠言をいただいていますが、むべなるかなと思います。
私の文章を読んで、不快に思われた方も多くありましょう。本当に申し訳ありません。
こんなことを書くと、
「それなら最初からあんな文章など載せねば良かったのだ」
と言われる方もあるでしょう。
まったく、その通りで、あのときの自分はどうかしていたのだと思います。
我が身こそがウヌボレと愚痴のカタマリであるにもかかわらず、そんな自分ということに少しも気づかずに他人を批判していたのですから、愚かと言うも愚かなりであります。
ガキのたわごとと読み捨られていた方も多いでしょうが、どうかお見捨てにならずにご批判・ご忠言をいただければ幸いです。
忠言は耳に逆らうの言葉のごとく、なかなか心からの反省ができない自分で申し訳ないのですが、ご批判を参考に、少しでもよい文章を書けるよう努力していきたいと思います。
テスト勉強をしないならテストの意味はない
まもなくテストですね。
図書館もいつになく大盛況。満員御礼のこの頃です。
この時期になるといつも思うのが、
テスト勉強をしない奴は馬鹿なんじゃないかということ。
そもそもテストは何のためにあるのか、と考えてみると
大学側からすれば、学生の理解度を測り成績評価の基準とするためだろう。
テストも何にもなしで、教授のノリで何となく成績を決められてはたまったもんじゃない。
それにテスト評価だと、(授業に出てなくても)自分でしっかり勉強して理解できていれば単位をくれるのが有り難い(笑)
では学生側にとっての、テストの価値やいかん。
皆このことを考えていないから、一夜漬けとか、テスト勉強をしないとかいう暴挙に出るのだと思う。
ただ与えられた課題を何の疑問もなくこなすだけ。思考停止。人間存在の失格。
私は、テストの存在価値は、自分が勉強をするための縁(えん:外的要因・きっかけ・外部環境)としてのみある、と思う。
何のきっかけも無ければ、ただ漫然と授業を聞き、分かったような気にだけなって、表面的な薄っぺらな理解のみで終わっていたところを
テストを縁として、自主的に勉強をし、分かっていない点を復習し、より深い理解につなげることができる。
また、テストの出来不出来をみて、
自分はその分野について本当に理解していたのか、それとも理解した気になっていただけだったのかを知ることができる。
そこから、出来ていない分野はまずその分野を理解することが先決問題であるし、
十分に理解できていると思えば先に進めばよい、と分かる。
その理解度の基準を客観的に与えてくれるのがテストだと言えよう。
まとめれば、テストとは
・勉強するための契機を与え
・自らの理解度を確認し、これからの勉強の指針を立てる
ためのものである、というのが私の意見である。
だからこそ、一夜漬けで済まそうと考えている人間や、テスト勉強をやろうとしない学生は
何をしに高い金を払ってもらって大学に来ているのかと思ってしまう。
もちろん、諸々の事情で一夜漬けせざるを得ないということがあるのは認めよう。
しかし最初から一夜漬けで済ませようというのは、どういう考えなのか。
一夜漬けなどテストが終わればすぐに抜ける。まさにテストのためだけの勉強だ。
テストが終われば頭からすっ飛んでいってしまうのならば、そのための勉強時間は無駄ではないか。
人生の無駄遣い。もっとも貴重な限られた資源の浪費。
私は何のために大学に来たのか。
それをしっかりと考えていれば愚挙は起こさぬはずだが、そこまですら考える者がいないのが現状である。
自業自得
「自業自得」という言葉がある。
因果応報とも言うが、三省堂の国語辞典によれば、
「自分のおこないの結果を自分が受けること。一般には悪い報いを受けることにいう」のだそうだ。
自らが受ける幸・不幸という結果のことを一般には運命と言われるから、
「運命は自分が生み出す」
と言えよう。
いくつか先人の言葉をあげてみたい。
続きを読む "自業自得"抽象化とパラメータ付け
自分のアイデアを「オリジナリティがない!」と一蹴されたら、誰だって「じゃあ、お前がアイデア出してみろ!」と反発したくなるだろう。
そこで今回は『キャラクター小説の作り方』(大塚 英志)をヒントに、”オリジナル”なアイデアの出し方について考えてみたい。
これから紹介する簡単な視点さえ身につければ、アイデアに困ることはなくなるはずだ。
無知の知
「無知」と聞けば、ソクラテスの無知の知を思い出す。
時は2400年前、処はギリシア。
アポロンより「最も知恵のある者」と託宣されたソクラテスだが
「まさか、自分が”最も知恵のある者”であるはずはなかろう。自分よりも優れた人があるはずだ」
と思い立ち、当時”知恵者”と呼ばれていた人たちを訪ね歩く。
敏腕の政治家や、ソフィスト(当時のギリシアにおいて金銭を受け取って”徳”を教えるとされた弁論家・教育家)や、時には通りすがりの若者とさえソクラテスは議論をした。
彼らの多くは、自他共に認める”賢人”である。
そこでソクラテスは、彼らに「善とは何か」「真理とは何か」といった問いを投げかけるのだが、
”賢人”といわれる彼らも、真に重要な根本的問題については答えられないのであった。
その時ソクラテスは
「世に言う”賢人”たちは、本当は自分が何も知らないということを知らない。
私は、自分が何も知らないということを知っている。
この点において、私は彼らよりも知恵があると言えるのかも知れない。」
と気づいたと言う。
誰しも「自分には知恵がある」と思いこんでいる。
口では
「私など大した者ではありません」
と言っていても、心の底では
「自分ほどの知者はいない」
と思っているのが人間だ。
その証拠には、幼稚園児や小学生に誤りを正されたら腹を立てる心があるではないか。
もし本当に己の愚かさを知らされているのであれば、どんな相手の諫言も心して聞けるはずである。
皆、心の中では「私こそ最も知恵のある者」とカンカンに信じこんでいるのだ。
己の愚かさに気づかぬ道化ほど哀れな者はない。
その思い上がりを自覚してこそ知恵が生じる。
自己の傲慢さを知らされてこそ、真実への扉は開けるのである。
ブログを書いてみる
「さて、ブログをはじめよう」
と思いたったは良いが、何を書いたら良いものか。いきなりつまづいている。
いや、書きたい内容は限りないのだが、
最初の挨拶、本であれば「はじめに」の部分がなかなか思いつかずに困っているのである。
だが何事も目指す目的地が定まらないことには進めない。
何はともあれ、このブログの進み行くところを示すのが先決であろう。
このブログの目的は単純だ。
読者に「考える」キッカケを持ってほしい、とのことに尽きる。
具体的に何をするのかと言えば、私はこのブログにおいて様々な事実を突きつける。
それに対して私見を述べることもあれば、問題定義だけに留まることもあろう。
いずれにせよ、それらの文章を読んだ者が、現状を振り返り、現実を見つめなおす手がかりになればと思っている。
文章はなるべく難解すぎず平易なものにしたいと思ってはいるが
「平易に書きたい」と前書きされている文章が難解な文章になりがちなのは世の常である。
分かりにくい点・難しい箇所などあった時にはご容赦願いたい。
なお筆者は東洋思想が好きである。
また考え方も日本人である。
ゆえに記事の内容も、そちらに偏るであろうことを予告しておく。
私個人の紹介が遅れたが、私は京都大学理学部のtakuと言う者である。
本名がばれても問題ないのだが、せっかくのネットなのだ。匿名性を楽しもうではないか。
終わりになってしまいましたが、このような場を与えてくださった kyoto-u.com スタッフの皆さんに感謝します。ありがとうございます。
それでは、あなたと共に思惟の海に潜れることを期待したい。